70.エレキギターの出会い(小学~中学校)

エレキ・ギターとバスケとの初めての出逢い(小学校から中学校時代)




ギターとの出会い。それは、小学生に遡る事になる。
当時、東宝映画の「怪獣モノ」が公開される都度母親にせがんで弟と三人で映画館に観に行った。
加山雄三のファンになったのも、同じ頃。

'63年の「マタンゴ」(南海の島で、キノコの菌が人間に取り付いた化け物)が観たくて、映画館に連れていってもらった。この、併映が「ハワイの若大将」だった。この最初の若大将シリーズを観たのが僕が10歳の時。
次いで、'65年の「フランケンシュタイン対地底怪獣」をやはりメインで見る。
この併映が「海の若大将」だった。この時は、二度目でかっこいいお兄さんだなぁーという印象が残っている、僕が12歳の時。
そして、同じ年の年末に公開された、「エレキの若大将」併映が「怪獣大戦争」である。この映画の時は怪獣映画よりも観にいく目的は若大将だった。(同じ小学校の友達6人で行った)
既に、レコードでベンチャーズを聞いていて、かっこいいな~と憧れがていて、この映画を観て完全に舞い上がってしまった。エレキが欲しい!!

年が明けて、お年玉を貰って(両親共に兄弟が多く、三が日の、毎年決まった日に、父親の祖父宅や母親の祖父宅に全員集合しているから、当時としては、結構な金額をおじさんたちから貰っていた)友達6人位で、銀座の楽器に、エレキ・ギターを見に行った。

高いのです。お年玉では手が出ません。そりゃそうです、小学校の6年生が5万以上もするギターを購入できる訳がない。中には10万円以上するギターも数多く飾ってあった。
ガッカリして皆で電車に乗って家に帰ったのを(くやしかったので)鮮明に覚えている。そりゃそうです、生まれて初めて、自分の目で、エレキを見たのだから。

その晩僕は夢を見た。学校の講堂(現在は、体育館と呼んでいますが)のステージ上で演奏している姿に。

学校に行っても、休み時間になると、友達とギターの話ばかりしていた。
エレキ熱は、冷めるどころか日毎に、僕達の心を熱くしていった。

小学校を卒業する頃、友人の父親の知り合いが、楽器店に務めていて、ギターを割引いて売ってくれる話が入ってきた。
各人(6人中1人は許可が下りなかった)が、親と交渉して粘った末に承諾を貰い5人が購入することができた。実際は、1人はドラムを1人はベースを買った。

初めて、手にしたエレキ・ギターは確かグヤトーンだったと思う。(手元今はないが)
テスコと並ぶ当時のエレキ・ブランドの一つだった。
本当は、皆、「エレキの若大将」でブルージーンズが使っていた、モズライトが欲しかったがとても購入できる金額ではなかった。
初めて、手にしたエレキ、みんな有頂天だった。

処が、全員、ギターを弾いた事がなかった。唯一できるのは、ドレミファソラシドと弦を爪弾くことぐらい。ドラムを買った仲間も、鼓笛隊の太鼓は叩いていたけど、幾つもの太鼓やシンバルをステックでトントン叩く、足でチャカチャカ、ドンドンする程度。

それから、殆ど毎日、金持ちの友人宅に集まり、レコードを持ち寄り(ベンチャーズの急がば廻れ)ステレオで何回も音を聴いて、そのメロディーをギターのフレットを指で押さえ、鳴らしていった。

数日で、ギター組みはギブ・アップした。指が痛い、その数日後には指から血が出るという具合だった。
しかし、みんな、全校生徒を前にして講堂で演奏したい。皆の人気者になりたい、との思いのが強かったので必死で練習に励んだ。
家に帰っても、指が弦により切れていて痛いのだが必死に練習した。当時、僕は家にはアンプが無かったので、生の鉄弦の音だけで練習をした。仲間も、同じように必死にやっていた、連帯感があったなぁー。

結局、小学生の卒業までには、皆の前では演奏ができなかった。が、春休みも返上して、殆ど毎日朝から晩までエレキに触れていた。

一ヶ月もすると、弦により切れた指の皮膚が固まってカチンカチンに硬くなってきた。こうなると全く痛くない。上達は早いものです。耳から音を聴き分け、何弦の何フレットでコード(和音)はこう押さえると、それぞれテクニックも上がってきた。
現在みたいに、譜面(パーツ毎のスコアーもない時代)がない時で大変な苦労をしたが、楽しい時間だった。その情熱を勉強に捧げていたら、違った人生になったかも知れないが。

当時のメンバーたちと、今のおっさんバンド=ザ・シャークス(このシャークスの名前の由来は「エレキの若大将」に登場するジェリー藤尾が率いてたバンド名、若かりし少年時代のバンド名もシャークス)を再結成したのだが、指が動かない。

僕らがバンドを結成したのは'65年、この年には音楽界では、ベンチャーズ(当時はヴンチャーズと表記されていた)、ビーチ・ボーイズが初来日し、エレキ・ブームに拍車がかかった年。
この、翌年'66年年6月29日にビートルズが初来日し、エレキ・ボーカル熱はフィバーしていく。そして、グループ・サウンズが数え切れないほど誕生した時代だった。

えんぴつメーカーのトンボが、トンボ楽器としてエレキ・ギターを、下駄屋でも、エレキ・ギータを造ったりするほど、生産が間に合わなくなり、猫も杓子もエレキ・ギターを製造していた。因みに、トンボ楽器のエレキ・ギターを中学時代に購入した今のバンド仲間に、昨日電話して聞いてみたら、当時1万5千円位だったという。

中学に入り学校が終わると、友達の家に直行。夕飯を食べるために一時自宅へ戻り再度、友人宅へという日が続いた。

5人のメンバーで練習をしていたのですが、僕がどうしても、部活動をしたいと言い出したのが丁度、五月の連休明けだった。
部活動はバスケット・ボール。この後、部活動とバンドのかけ持ちをすることになり、時間が24時間では全く足りないという日が続く。

バスケット・ボールも自分の人生の中で大きなウエイトを占めている。お陰で高校へは推薦で入る事が出来た。(当時、都内でバスケでは、最強の高校だった)
バスケの話をここですると、話がややっこしくなりますので、機会があればまた改めて、記述します。

バンド練習と部活と勉強の3股。自分でやると決めたのですから。
入部してから、平日はバンド練習には夜からの参加となった。この間に他の皆は、凄い勢いで成長しており、正直、あせった。ギター3人で、自分がリード・ギターのパートを最初やっていましたが、他の2人の上達が著しく、夏休み前には、パートの移動(サイド・ギター)を全員から命じられてしまった。この事件は、中学一年ながらショックだった。冷静に考えると、部活で、つき指をしたり、絆創膏を貼ってたり身体上傷が絶えないのだから、仕方のないことだったのだが。

だけど、負けず嫌いの性格なので、必死に練習に励んだ。
パート移動で、コード進行などを行うサイド・ギターでは、正直面白くなかった。しかし、他のメンバーが弾く、ベンチャーズの曲やブルージーンズの曲のリードのパートはハッキリ云って、完敗。練習量が全く違っていた。

敵わないと判断しバンドのリーダーも譲り、サイドに徹してその後、三年間励んだ。(途中で、ベースやドラムスも経験した)
大勢の前での演奏は、文化祭だった。一年生の秋に講堂のステージで。社会的にエレキ禁止令が出る前だったと思う。

晴れの舞台で、嬉しいというのと間違えたらどうしょうというのと、足が震えでガチガチだったと思う。5人共、顔が青白かった。
舞台裏で出番を待っているのが一番緊張する。
いざ、本番。クラスの仲間が裏方として支援してくれて、アンプなどの機材や電源などのを舞台でセットアップし完了した。
校長先生以下、全校生徒(自分達の時代、クラスはA組みからH組みまであり、1クラス50人位)これが他に二年生、三年生といるのだから凄い人数の中で、勇気を出して初めてのステージを行った。
舞台袖から、5人一緒に舞台に楽器を持って行ったが、この時の記憶が全くない。後で話を聞くと、みんな記憶喪失になったてい。

講堂にいる、全員の目が痛いほど、僕たちに突き刺さってきた。
居たたまれない緊張感です。心臓が激しくバクバいっていた。手の平からは噴出す汗!!、この場から逃げたしたかった。
こんな緊張感り中で初めての、シャークスの演奏が始まった。

自分達の初めての、ステージで演奏した曲は、全部で4曲。
1.マイ・ジプシー・ダンス(加山雄三)
2.ウォーク・ドント・ラン(ベンチャーズ)
3.荒城の月(滝廉太郎)
4.ブラック・サンド・ビーチ(加山雄三)
全て、インストの曲。

結果的には、大成功した。(最後の曲で大きく、音を外し、皆から拍手喝采があったのを、ステージを降りてクラスの仲間から聞かされけど緊張感は極限に達していて記憶は全くない。今でも時々酒を呑みながら昔を回想するとき僕達は音は絶対外してないと信じているのだが)

一躍僕らは、学校中の人気者になった。
そして、僕たちにより刺激を受けた生徒たちが、後に続きエレキ・バンドを結成していった。

この後、二年生になる音楽界はまさにGS一色となる。
加山雄三がヒット曲を連発し、スパイダース、ブルー・コメッツ、サベージ、更にはビートルズの日本来日などにより。
三年生の時には、エキレブームが更に加熱して、タイガース、テンプターズ、ワイルド・ワンズ、ゴールデン・カツプスなど、書いていくと切がない程デビューした年だった。
この頃は、小遣いの殆どを、レコードの購入に使っていた。しかし、次から次へと新しい、グループが登場しレコードを購入するのが追いつかなかった。

ラジオの深夜放送は、レコードを発売する前から流したり、テレビでは、ヤング720でも放映していて、毎月新曲のオンパレード。

そこで、弟と連携を取り、自分はこのグループとこのグループを、弟は、じゃ僕はこのグループとこのグループ、小遣いの続く限り、加山雄三、GS、ベンチャーズ、ビートルズなどのレコードを購入した。

'67年にどれだけのGSと加山雄三のレコードを購入したか、当時の日記を今も保存しているので調べてみた。(弟が買ったのも一緒に書いてあった、膨大な数のレコードを買っている。(洋楽は除く)記述してみると、

2月5個日:僕のマリー/タイガース、2月5日:小さな倖せ/ワウルド・ワンズ、2月15日:二人だけの海/加山雄三、2月15日:夜空に夢を/サベージ、3月1日:ブルー・シャトウ/ブルー・コメツツ、3月1日太陽の翼スパイダース、3月20日レッツ・ゴー・シェイク/バニーズ、4月20日:白い雲の彼方に/シャープ・ファイブ、5月5日:シーサイド・バウンド/タイガース、5月5日:夕陽と共に/ワイルド・ワンズ、5月15日:君のために/加山雄三、6月1日:好きさ好きさ好きさ/カーナビーツ、6月1日:渚に消えた恋/サベージ、6月1日:君に会いたい/ジャガーズ、6月15日いとしのジザベル/ゴールデン・カップス、6月25日マリアの泉/ブルー・コメッツ、7月15日:風が泣いてる/スパイダース、7月20日:初恋の丘/ビーバーズ、8月1日:海へ帰ろう/シャープ・フォークス、8月1日:バラ色の雲/ヴィレッジ・シンガーズ、8月15日モナリザの微笑/タイガース、8月25日:あの虹をつかもう/スパイダース、9月15日:別れたたあの人/加山雄三、9月5日:青空のある限り/ワイルド・ワンズ、9月15日:北国の二人/ブルー・コメッツ、9月20日:恋をしようよジェニー/カーナビーツ、10月1日:運命/バニーズ、10月5日:哀愁の湖/サベージ、10月5日:ダンシング・ロンリー・ナイト/ジャガーズ、10月15日:一日だけの恋/アウト・キャスト、10月20日:愛のリメンバー/バニーズ、10月25日:オーケィ/カーナビーツ、10月20日:いつまでもどこまでも/スパイダース、10月25日:忘れ得ぬ君/テンプターズ、11月5日:真冬の帰り道ランチャーズ、11月10日:君なき世界/ビーバーズ、11月10日:好きだから/ヴィレッジ・シンガーズ、11月10日:トンネル天国/ダイナマイツ、11月10日:朝まで待てない/モップス、11月15日銀色ののグラス/ゴールデン・カップス、11月20日太陽野郎/バニーズ、12月25日:幻のアマリリア/加山雄三

とレコードを買った記録です。洋楽は除いていますが凄い数です。

バンドに戻って、これらのGSやビートルズの影響で、僕たち、シャークスもインスト中心からボーカル・バンド(GSをコピーして)になっていった。
二年生、三年生とこのシャークスは、文化祭の時に活躍しました。

実は、テレビのエレキ番組のオーディションに申し込みをしましたが、先生の反対にあい、断念せざるを得なかった。

過去に書いた日記を編集して、フリー・ページに残しました。 次は、高校時代編です。


© Rakuten Group, Inc.